自己紹介

こんにちは、皆様。私の名前は与田太一と申します。
今から、私のこれまでの経験と、なぜ今のマーケティングの世界にいるのか、コンサルティングの世界にいるのか、その背景にある物語をお話ししたいと思います。

目次

最底辺からの脱却。少年ジャンプが教えてくれた必勝法

高校時代の僕が周りから言われていたのは、「勉強のできないバカ」という言葉だった。実際、偏差値が決して高いとは言えない東京都立砂川高校の中で、僕の成績は底辺をさまよっていた。僕自身、そのことに特に反発もせず、授業中は窓の外を眺め、休み時間になれば漫画雑誌に没頭する、そんなごく普通の生徒だった。

だが、ある日、僕の人生を変える、ささやかな「発見」があった。

いつも読んでいた「週刊少年ジャンプ」の分厚さを、ふと意識したのだ。約300ページ。この膨大な物語と絵の情報を、僕らは毎週、当たり前のように楽しんでいる。しかし、一度読んだだけで、全てのセリフや展開を覚えられるわけではない。面白い作品は、自然と何度も読み返し、そのうちに内容が頭に入ってくる。

その時、ふと思いついて、本棚にあった数学の教科書を手に取ってみた。ページ数は、たったの120ページ。

「待てよ」と僕は思った。「毎週300ページのジャンプを読んでいるんだ。たった120ページの教科書が、読めないはずがないんじゃないか?」。

少年ジャンプを読むのと同じ要領で、教科書を読んでみたらどうだろう? 文字が多く難解に思える教科書も、漫画と同じように、2週間も眺めていれば、さすがに頭に入るかもしれない。そう思い立って試してみると、驚いたことに、結果は5日とかからずに読破できてしまった。

その瞬間、僕の中で何かが弾けた。「勉強」というものの捉え方が、180度変わってしまったのだ。勉強とは、苦痛な暗記作業ではない。面白い漫画を読むように、自分なりのやり方で情報をインプットするゲームなのだと。

その「コツ」を掴んだ日から、僕は突然「勉強ができる人」に変貌した。さらさらと教科書を漫画のように眺める。それだけで、次々と内容を理解できるようになっていった。そして、世間では難関と言われる一橋大学にも、それほど大きな苦労をすることなく、比較的余裕をもって合格することができた。ちなみに入学後には「一橋大学史上、最も偏差値の低い高校から来た男」という有り難いような有り難くないような言い方をされた。実際に塾講師をしていた友人は、僕の高校の偏差値を調べて、「ホント、良くこんな偏差値低い高校から受かったよな」と言われた。ただし、恐らくその友人より僕の方が入学成績は上である。

しかし、あくまで「勉強」はできるようになったが、人間のマインドが変わる訳ではない。問題は出自が名門高校ではないので、そもそも上場企業に就職するとか、そういう感覚がよく分からなかった。今でこそ上場企業は福利厚生に恵まれているとか分かるが、当時はそんなこと思いつきもしなかった。

当時の一橋大学は有難いことに「文系の就職は日本で一番良い」と言われるくらい就職には恵まれていたので、バブルが弾けた不景気の時代にあっても、就職活動の時期になるまでは特に就職など意識する必要はなかった。就職活動をしながら自分の行きたい企業を見つけるスケジュール感で良いので、学生時代に自分のやりたいことに専念でき、周りも好き勝手に自分の興味のあることをやっていたし、自分もそうだった。

100社以上落ちた「就職貴族」

さて、そんな中、3年生の1月くらいから就職活動が始まる。周りの先輩を見て、就職活動のスケジュール感などは知っていたものの、周りの同期が突然就職モードに切り替わったのにまずは戸惑いを感じた。そもそも、3年間、大学に何も干渉されずに好き勝手に生活を送って来たので、特に行きたい企業とか業種などがある訳でもなく、どんな企業がいいかなど考えたことすらなかった。

恐らく、ここで高校の出自がネックになった。そもそも高校の周りの連中は、中古車屋、運送屋、大工、はたまたミュージシャンなど様々な職業についていたが、そこに「大企業」という選択肢はなく、上場企業に就職しても、何やらされるかも良く分からず、メリットも良く分からなかった。三井・三菱などと言われても、社会人を経験した今だからこそ安定して給料も良く、福利厚生も良いなどと分かるが、高校の連中より安い給料で何の仕事やるかも分からない中、「大企業に就職する」という意味が良く分からなかった。

親族に関しても、中小企業の社長や経営者が多く、どう考えても大企業の部長なんかよりは全然羽振りが良かった。自分の親に関しても中小企業とはいえ建築会社の幹部だったので、やはり給料はよく、自分の周りに「上場企業勤務でいい目にあった / いい目に合いそう」というモデルケースが存在しなかった。どちらかと言うと「安月給で会社都合で仕事内容も右往左往させられる」という印象の方が強かった。

また、当時、コンビニでバイトしていたのだが、コンビニバイト、特に夜勤はかなり自由が効く。休憩時間もそうだし、仕事の手順ややり方についても、自分の好きにできた。陳列一つで物の売れ方が変わるところなども面白かった。労働形態にしてもバイトなので自由だった。大学についても「一橋大学には自由がある。勉強をしない自由がある。」と言われてたころの、学生のやることには一切干渉しない校風だ。「就職しても9:00-17:00のような中学生のような生活に逆戻りで、仕事もコンビニバイトよりつまらない可能性がある」という点は、就職活動の際の大きな悩みどころだった。

周りは器用にリクルートスーツを着こなし、将来のキャリアプランを淀みなく語っている。それなのに自分は、一体何がやりたいのか、どこへ向かいたいのか、さっぱり分からない。会社案内見てもどの会社も大して面白そうではなく、就職セミナーに参加してもつまらない。社会という巨大なシステムの前に、ただ一人、途方に暮れているような、あの無力感。

何を隠そう、2000年、ITバブルが世間を騒がせていたあの頃の僕が、まさにそれだった。

「一橋大学」といえば、聞こえはいい。日本の文系大学ではトップ、民間の就職なら東大より上との就職実績を誇り、「就職貴族」なんて呼ばれている。だが、現実は残酷だ。エントリーシートを含めれば、僕を「いらない」と判断した企業は、ゆうに100社を超える。大川興業の大川豊総裁が「就職活動で100社落ちた」と語っていたが、僕もその不名誉な記録にだけは、負けていなかったと思う。

自分でも、その理由は分かっていた。僕には「熱意」がなかったのだ。

とある食品メーカーの最終面接。役員の脇に置かれた資料が、チラリと見えてしまった。そこに書かれていた僕の評価は、確かこんな感じだった。

「能力A、伸び代A、熱意C」

見透かされている。心の底から「この会社で働きたい!」と思えない僕の空っぽの心は、百戦錬磨の大人たちにはお見通しだったのだ。

僕には、人並み外れて「好きなこと」と「大嫌いなこと」があった。「研究」は好きだった。日本の社会学のレベルに限界を感じ、人種のるつぼであるアメリカの大学院で最先端の研究に没頭したい、そんな青臭い夢も持っていた。

だが、その一方で「講義」が大嫌いだった。大学4年間でまともに出席したのは、必修の語学と体育くらい。その体育ですら、自分の出番以外はジャージにも着替えず、漫画雑誌を読みふけっていたほどのナマケモノだ。好きな研究の道に進むには、嫌いな講義を受け続け、何年かかるか分からない暗いトンネルを潜り抜けなければならない。その先に、研究者になれる保証などどこにもない。

かといって、心から入りたいと思える会社も、この日本には見つからなかった。

面白いことに、そんな僕を「いいね!」と言ってくれる風変わりな会社がいくつかあった。「君はうちに向いているよ!」と熱心に誘ってくれたのは、当時、まだまだ若いベンチャー企業だった人材紹介のインテリジェンスや、不動産のゴールドクレスト。彼らに共通していたのは、”ベンチャー気質”という言葉。既存のレールの上を走るのではなく、自分たちで新しい道を切り拓こうとする、いわば「はみ出し者」たちの集団だった。彼らは僕の「熱意C」の奥にある、何かを見抜いてくれていたのかもしれない。社風としては両社とも面白そうだが、不動産業や人材紹介会社に全く興味は湧かない。さて、どうしたものか。

そんな時だった。どうせ行く会社もない、と投げやりな気持ちで参加した、一社の就職セミナーが僕の運命を大きく変えることになる。

その会社の名は、「光通信」。

熱気、狂気、そして驚くほどに洗練されたビジネスモデル。どの会社のセミナーよりも刺激的だった。「キャッシュフロー経営」「ストックコミッション(今で言うサブスク)重視のビジネスモデル」「4階層しかないフラットな経営組織」「時価総額の最大化」。僕が他のセミナーでは聞いたこともないような、最新の欧米流のマネジメントの手法が、そこでは生々しい現実として動いていた。社長は、たったの35歳。

「ここかもしれない」

直感的にそう思った。そして、面接を受けると、たった1回で内定が出た。100社以上も僕を拒絶した世界が、嘘のように思えた。それが、僕が社会学という静寂の世界から、ITバブルという狂乱の世界へ「舞い降りる」ことを決意した、2000年の夏のことだった。

ITバブルの熱狂と狂気の「洗礼」

光通信の内定式は、当時都内で最も高級と言われたホテル、パーク・ハイアットで開かれた。宿泊までさせてもらい、「勢いのあるベンチャーは、やはり懐が違う」と感心したものだ。しかし、それはこれから始まる壮絶な日々の、ほんの序曲に過ぎなかった。

僕が配属されたのは、本人も知らないうちに選抜されていた「事業家枠」という特別コース。入社前から、アーサーアンダーセン監修の、一人あたり数千万円はかかったという超高額なマネジメント研修が始まった。財務、経営戦略、マーケティング…。内容は高度だったが、それ以上に過酷だったのは、そのスケジュールだ。合計2週間の研修期間中、睡眠時間は平均して1日2時間。まさに精神と肉体の限界に挑むような日々だった。

そこで僕を待ち受けていたのは、最初の強烈な「洗礼」だった。当時の光通信の同期は、慶應SFCの学生が多かったが、彼らはパワーポイントを駆使したプレゼンテーションに驚くほど慣れていた。彼らが華麗に持論を展開する横で、パワポなど触ったこともない僕は、天と地ほどのスキルと意識の差に愕然とするしかなかった。自分なりに必死で課題をこなしたものの、確認テストには全く手応えがなく、僕は早々に「最初のつまずき」を味わうことになった。

そして、そのつまずきは、研修後の「現場」で、さらに深刻なものとなる。

「君たちは事業家枠だ。だから、普通の営業がやることはできて当たり前」

そのカルチャーの元、通常研修では、僕たちは他の営業採用者と同じく80kmの道のりを歩かされ、ルール無用の「殺人バスケットボール」で怪我人が出るほどの、今ではコンプライアンス的に到底考えられない研修に放り込まれた。そして営業研修として配属されたのは、光通信の子会社の中でも、特に「ゴリゴリ」で知られるスカイパーフェクトTVの訪問販売部隊だった。

結果は、惨敗。僕は全く成績をあげられなかった。ノルマは1日2件成約、1件も成約できなければ光通信流の激詰を喰らうと言う環境で、最新の欧米流の経営理論も、社会学の知識も、そこでは何の役にも立たなかった。

もうダメだ。そう思った矢先、僕のキャリアに最初の、そして最も奇妙な転機が訪れる。過労がたたって、吐血したのだ。すると、それを見ていた営業課長が、血相を変えて僕の元にやってきた。「お前、すごいな!」。彼は、僕の吐血を「頑張りの証」と勘違いし、いたく気に入ってくれたのだ。その営業部長とは、本部でも同じ部署となり、どういう訳かめちゃくちゃ色々気にして世話を焼いてもらった。

こうして僕は、スカイパーフェクトTVの成約数1件、吐血1回という謎の実績を手に、イマイチ消化不良のまま、2000年4月に本社勤務を命じられることになった。

本社で見つけた「本当の武器」と「新たな絶望」

僕が入社した直後、あれほど熱狂していたITバブルは、あっけなく弾けた。光通信も一時期は株式の時価総額が日本のTOP10入りしていたと思うが、ITバブル崩壊直後の本社に漂っていたのは、祝祭の後のような、どんよりとした空気だった。

しかし、それでも会社の文化は強烈だった。「新入社員でも役員に直談判可能」なほどフラットな組織で、入社前から新規事業を役員に提案する同期もいた。本社にいるのは「ヘッドハンティングされた財務の専門家」か「ゴリゴリの営業出身だが財務も分かる猛者」ばかり。しかも、そのほとんどが20代、年齢が高くでも30代前半くらいなのだ。

僕に与えられた業務は、主に三つ。一つは、証券会社の企業分析レポートを読み解き、コメントをつける仕事。二つ目は、新規事業の企画や財務分析。そして三つ目が、社内の優秀な人材を引き抜き、自部署に引き入れるという、今思えばあり得ないような仕事だった。

意外なことに、上司からの評価は悪くなかった。僕自身は、周りと比べて特に能力が高いと思っていなかった。しかし、アクの強い「インテリヤクザ」集団たちの中で、僕の「調整能力」や「要領の良さ」が、潤滑油として機能していたらしい。これまで高校・大学時代の中で培われた人当たりの良さが生きた結果と、光通信は結果さえ出してれば生意気なくらいが良しとする社風だったので、直言する姿勢も評価されたのかと思う。

だが、そのささやかな成功も長くは続かなかった。朝7時に出社し、夜9時に退社、そこから深夜まで飲み会という生活。一番安らげたのが、韓国出張へ向かう機内だった、というほどに僕の心身は摩耗していた。そして入社から半年後、ついに体を壊し、1ヶ月の休職を余儀なくされる。

同時に、バブル崩壊の余波で、僕が関わっていた案件は次々と凍結/縮小されていった。とにかく、予算縮小で新しいことはほぼ何もできない。

「自分がやっているこの仕事に、本当に意味はあるのか?」

休職中のベッドの上で、僕は根源的な問いと向き合うことになった。

さよならITバブル、こんにちはユニクロ

暗闇の中で僕が見つけ出した答えは、意外なほどシンプルだった。「財務会計を、もう一度きちんと勉強しよう」。そして、そのために「米国公認会計士」を目指そう、と。

さらに、僕の心の中にはもう一つ、しかし切実な願望があった。それは「一度でいいから、フリーターを経験してみたい」というものだった。

光通信を辞める時、会社からは「好きな部署に行かせてやる」とまで言われた。しかし、僕の決意は固かった。同期たちは、特に驚くこともなく、「お前らしいな」と歓迎してくれた。将来は独立したいと考える連中が多いこの会社では、辞めて新しい道に進むことに、誰もアレルギーを持っていなかったのだ。

こうして僕は、華やかなITバブルの世界を後にし、一人のフリーターになった。

誰からも反対されなかった。親は昔から、子供のやることに一切口を出さない。大学の同期たちも、僕の奇行には慣れっこだ。

フリーターとしての僕が選んだ職場は、ユニクロだった。そして、この選択が、僕に「第三の衝撃」を与えることになる。

ユニクロの凄みは、その「仕組み」にあった。店舗には、ミスなどを書き込むノートがある。しかし、そこに何かを書いたからといって、誰かが怒られるわけではない。そのノートに書かれた内容が「重要だ」と判断されれば、その日のうちにエリアマネージャーから本部へと情報が伝達され、なんと翌日の朝礼では、全店舗で問題点と改善策が共有されるのだ。現場の小さな失敗が、24時間後には会社全体の「学び」に変わる。この圧倒的に効率的な、ボトムアップの改善システム。

だから、ユニクロが2000年のフリースブームの後に、一時不調になったが、「現場のオペレーションが混乱してるな」とは思ったものの、それは一時期の混乱で、またすぐ復活すると思った。現場からの問題点を翌日には改善して全国規模で共有できる、こんなPDCAの改善の仕組みを持った企業は、他に存在しない。

光通信という「祭り」と、ユニクロという「仕組み」。この両極端なビジネスの現場を体験したことで、僕の中で「成功」や「成長」というものに対する、新しい哲学が生まれつつあった。そしてその学びは、僕が目指していた「米国公認会計士」という、ルールと論理で構築された世界への見方にも、大きな影響を与えていくことになる。

フリーターからマーケターへ

英文の財務会計試験1級を取得し、勉強に一区切りがついた僕は、再び就職活動を始めた。希望職種は、財務かIR。光通信では花形だったその仕事に、僕は再び挑戦しようとした。

しかし、ここでもまた「ギャップ」に苦しむことになる。光通信以外の多くの企業では、財務やIRは「経理の延長」のような地味な仕事でしかなく、僕の心は少しもときめかなかった。いくつか内定が出そうな企業もあったが、どうしても拭えない「何か少し違う」という感覚。

そんな時、たまたま見ていた転職サイトで、一つの募集が目に飛び込んできた。

「株式会社ジャパン・マーケティング・サービス、Webプロデューサー(未経験者歓迎)」

財務とは全く関係ない。だが、なぜか心が惹かれた。面接に行ってみると、話が面白かった。内定も出た。こうして僕は、会計士への道を自ら捨て、マーケティングという全く新しい世界へ、三度目の転身を遂げたのだ。

なぜ、そんな無謀な決断ができたのか。今思えば、僕の無意識は気づいていたのかもしれない。社会を俯瞰する「社会学の目」、ITバブルの「カオスな経験」、ユニクロの「緻密な仕組み」、そして「財務会計の知識」。このバラバラに見えた僕だけの武器のすべてを、一つの戦場で同時に活かせる場所。それこそが「マーケティング」の世界なのだ、と。

その会社では、Webマーケティングの黎明期を、調査、分析、コピー、制作まで、文字通りマーケティングの全てを経験した。本は自由に買って良かったので、ありとあらゆるマーケティング本を読破した。その中で、僕の情熱は、次第に海外事業へと向かっていった。特に、隣国・中国の巨大な市場に、大きな可能性を感じていた。

2、3ヶ月に一度のペースで中国へ出張し、現地のマーケティングに携わる中で、僕は確信する。「分析」だけではダメだ。「現場」に身を置かなければ、本物の仕事はできない、と。

そんな時、人材紹介会社よりある企業を紹介された。それは「デルフィス・インタラクティブ」。
トヨタ系の広告代理店、デルフィスの子会社である。
どうやら、広州に駐在できるWebが分かるプランナー・マーケターを探しているらしい。
「現地でやってみたい」と言う希望が叶うと言うことで、すぐに面接に出向き、そもそも中国市場が分かっているマーケターが市場に存在しないこともあり、即採用となった。
そうして、2019年4月、意気揚々と広州へと着任することになった。

中国でも実力が通用することが分かる

ところが、ここで大きな躓きがあった。広州での広告代理店は、名前は「広州デルフィス博報堂」と言う、広州の広告代理店、博報堂、デルフィスの3社合弁会社である。元々は、「広州に2、3年駐在し、その後北京かタイなどの業務を駐在などで手掛ける」と言う約束で入社したのだが、「広州デルフィス博報堂」と日本の「デルフィス・インタラクティブ」の間でその調整がついてなかったのだ。また、「広州の広告代理店」「博報堂」「デルフィス」の3社も思惑が違う。会社自体は200人規模の会社だが、日本人1名の予算を出すかどうかで考えると、デルフィスの思惑だけで予算が出る訳ではない。しかも、タイミングが悪いことに、新車のローンチプロジェクトが終わったばかりで、社内はタルみ切っており、日本人は毎晩飲みに行く感じで業務自体が大してなかった。

自分は中国に骨を埋める覚悟できていたので、その日本人駐在員達のタルんだ雰囲気がどうにも馴染めなかった。本来であれば、夜時間がある時は中国語の勉強や中国のマーケットの勉強をしたかったのだが、夜な夜な日本人駐在員から呼び出されるのだ。もちろん、あまりに毎日のように呼び出されるので最後は呼び出しも無視してたが。

そして、そもそもがプロジェクトが終わったタイミングなので大した仕事もない。広州に派遣されてしばらくしてから知ったことだが、契約上、広州デルフィス博報堂からデルフィス・インタラクティブに顧問料が支払われる契約になっており、法人として人件費計上できない点も大きかったかと思う。

とはいえ、上記の状況は駐在1ヶ月ほどで気がついていた。なので、その後は「自分が将来中国で通用するようにスキルアップをする」と言う1点に集中して業務をこなした。具体的には、中国人スタッフや現地の外部スタッフと交流を増やしてマーケット感覚を磨く、中国語を勉強する、そのために余計な飲み会などは一切参加しないなどである。そうして1ヶ月後、やはり広州デルフィス博報堂としてはこれ以上予算は出せないと言うことで、日本に帰国させられた。とはいえ、広州の広告代理店側の中国人スタッフは、「与田は会社に必要である」と会社にクレームを入れてくれたらしいが。

たったの2ヶ月とはいえ、「中国の現地でも十分に自分の実力は通用する」ことが分かった点は大きな収穫であった。自己評価とは逆に広州デルフィス博報堂からの評価は低かったと思うが。しかし、そもそも会社の中が3つの代理店に分裂してお互いが牽制し合い、毎日飲み遊び歩いているような連中にどう評価されようが、個人的には何とも思わなかった。

とはいえ、中国の現地で仕事をすると言う目標が達成できなかったのも事実である。自信は得たもののさて、今後どうしようかと言う考えはまとまらないまま、帰国することとなった。

北京、徒手空拳の独立

日本に戻ってきてからも、一応、海外部門の採用ということで、中国やタイのプロモーションなどに携わった。しかし、いかんせん仕事がつまらない。

前職はマーケティング会社でマーケティングをやっていた。前職では、何をクライアントに提案しようが自由、クライアントに価値のある提案であれば何を提案をしても良かったし、クライアントもそれを望んでいた。

しかし、広告代理店は違う。会社の中に売りたいものがあり、売りたいものありきの企画がほとんどなのだ。例えば大手広告代理店であれば「テレビを中心にしたマス広告」を売りたく、クライアントの価値とは関係なしに、それを中心にした企画を立てる。そのようなビジネスの「売りたいものありき」の進行に全く馴染めなかった。

また、1つのプロジェクトにかける人数も問題だった。前職の場合は、企画コンペになった際に「競合の大手広告代理店は20人以上スタッフを連れてきたが、当社は3人だけで望んだ」みたいに、関わる人数が少ないゆえに意思決定の裁量も大きかったが、とにかくプロジェクトの裁量が少なかった。プロジェクトのほんの1パート、10枚に満たない企画書を作るのに、修正と会議の繰り返しで家に帰れず、1ヶ月ほぼホテル住まいみたいな業務量でこなすということもあった。

あと、会社にこのまま所属するとして、特に新しいノウハウが習得できる訳ではない点も引っかかるところであった。仕事内容的には、前職では入社当初に手がけたような初級の仕事が多く、その割には「徹夜など長時間労働するのが偉い」的な風潮があったので、効率重視の自分の働き方とは馴染めなかった。

なので、転職をするかどうかで迷っていたのだが、そんな折に、旧知の中国人から誘いがあった。

「北京に仕事があるから、来ないか?」

保証は何もない。しかし、僕の心は決まっていた。最初に光通信に入った時に立てた目標として「33歳までに独立する」というのがあり、それはずっと頭の中にあった。ちょうど年齢も33歳、10年近い回り道の末、僕はついに自分の戦場を見つけたのだ。日本の仕事はつまらない。僕は1年で会社を辞め、北京で独立することを決めた。当面の蓄えは、5、6年無収入でも生活できるだけあった。最悪、無収入でも中国語をマスターできれば、それだけで価値がある。そう考えた。

北京に降り立った僕は、文字通り「徒手空拳」だった。理念や計画など何もない。日本にいた際に「現地のことが分かっているマーケターがいなくて苦労したから、同じように考えている人が仕事をくれるだろう」くらいの考えで、2010年の4月に北京に行き、独立して仕事をすることにした。

幸運にも中国に行ってすぐ仕事が舞い込む

だが、運は僕に味方した。到着して1週間で、大手メーカーの調査の仕事が舞い込んだのだ。それをキッカケに、大手自動車メーカーのWebサイト制作、大手電機メーカーのPRやイベント、光学機器メーカーのPRなど、面白いように仕事は口コミで広がっていった。特に営業努力をしなくても、仕事のオファーは途切れなかった。

もちろん、失敗もあった。納品ギリギリでサイトをローンチさせ、クライアントをヒヤヒヤさせたこともある。また、中国の日系企業の場合は予算の組み替えが激しい。例えば北京で持っていた予算が上海に移されたりなどすると、そもそも結果を残してても仕事が消滅するなどしょっちゅうある。また、一番売上が大きかった電機メーカーが、日本法人の業績不振で予算がゼロになったりなどの経験もあった。また、中国なので、当然不払いなどのトラブルにも巻き込まれ、大損をする寸前まで行ったこともあった。しかし、基本的には他の誰よりも「仕切りよく」仕事ができた。それは、特別な才能ではない。ただ、「日本人、中国人関係なく、いかに真摯に仕事をするか」そして「必ず現場を把握して行動する」という、当たり前のことを、誰よりも徹底しただけだ。その姿勢が、国籍を超えた「信用」を生み、僕の元に仕事が流れ込み続けた。

クライアントの本社と現地の板挟みになるようなこともあまりなく、僕の意見はそのまま採用されることが多かった。基本的にはクライアントにも恵まれたという点でも、僕は本当に幸運だった。

AI革命の狼煙と、僕の新たなミッション

2019年まで、僕のキャリアは絶頂期にあった。毎週のように国際線に乗り、アジア中を飛び回って忙しく働いていた。だが、その日常は、突如として終わりを告げる。

2020年、コロナ。

世界中から「現場」が消えた。僕は10年ぶりに日本に戻り、北京に引きこもるか、東京に拠点を移すかの選択を迫られた。そして、東京を選んだ。どっちみち外出はそんなにできなくなる中、北京に引きこもるのはさすがに気が引けたのだ。ビジネスは完全にオンライン化し、しょっちゅう出張に行く必要もなくなった。独立から10年が経ち、資産もある程度貯まっていた。

「もう、仕事は引退してもいいかもしれない」

初めて、そんな思いが頭をよぎった。激動の日々を走り抜いた達成感と、目的を失ったような寂しさ。お金のために働く必要がなくなった時、僕は初めて、自分自身の「時間」と「人生」そのものについて、深く考え始めた。

そんな静寂の日々を打ち破ったのも、またしてもテクノロジーだった。

2023年頃から本格化した、生成AIの隆盛。

2000年のITバブルも経験したが、今回の波は、レベルが違う。あれが単なる「新産業の勃興」だったとすれば、今回は、真の意味での「情報革命」だ。僕自身の仕事の8割は、すでにAIに置き換え可能だと感じている。100人がかりで開発していたアプリが、たった数人で作れてしまう。これは薔薇色の未来などではない。「知識」が意味をなさなくなる、ホワイトカラー大量失業時代の、静かな、しかし確実な幕開けなのだ。

「この波に乗らないと、死に至る」

引退などと考えていた僕の心に、再び火がついた。

社会学、ITバブル、仕組み、会計、マーケティング、そして中国。僕の支離滅裂なキャリアは、全て、この日この時のためにあったのだ。

僕は今、このAIによるパラダイム変換にあった形で、日本と世界で新たなビジネスを展開しようとしている。

僕の物語をここまで読んでくれたあなたに、最後に伝えたいことがある。それは、僕がこの波乱万丈な旅路の果てに掴んだ、たった一つの真実だ。

「常識を捨てよ、変化に身を任せろ!」

あなたの人生も、きっとそうだ。目の前で起きる変化を恐れるな。安定にしがみつくな。一見、無関係に見える回り道こそが、未来のあなたを作る、たった一本の道なのだから。

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